大洲の地名由来 【デルタがつくった大きな洲】
今から5千年ほど前の関東地方は、海が大地の裾まで深く入り込み、関東平野の最も低い部分は、「奥東京
湾」と呼ばれる海になっていました。やがて、その海が徐々に後退すると同時に、山地から大小の河川が大量
の土砂を運んで、河口へ河口へとデルタ(三角州)を広げていくことになりますが、東京湾に面した下総台地の
全面でも、砂州が形成され、大地との中間に湿地帯をつくっていきました。これが本市市域では、江戸川によ
って運ばれた土砂の前に広がり、行徳・浦安地域が作られていきます。
このデルタの形成途上で、砂州の南側に大きく半円状の地域がつくられました。これが、今日の大洲の地域
です。即ち、大洲とは、デルタが形成した大きな洲を指したものなのです。
現在は暗きょになってしまいましたが、かつて北越製紙から明治乳業の前の通りには、掘割が通っていました。
その掘割の西(江戸川沿い)を「外大洲」、東を「内大洲」と呼びました。当時、この地域は行徳町に属し、全体が芦(あし)
・萱(かや)などの密生する湿地帯のままで近代まで続きました。それが、大正期における耕地整備で、一部耕地として
利用されるとともに、工業用地として開発されるようになりました。大正9年4月、新潟県長岡に本社をもつ北
越製紙が、市川工場の操業を始め、昭和30年には、この地域も市川市に併合し、同36年7月には、明治乳
業市川工場が建設されています。
昭和6年、この大洲に、市川競馬場が開設されました。これは、現在の防災公園を中心に西は大洲中学校、
東は第8中学校に及ぶ範囲で、馬上は1周1,600メートルでした。第1回の開催は同年12月18日から3日
間で、当時の記録によると、入場者が68,327人、馬券売上額は185,373円を数えたといいます。市川競
馬場は、昭和13年に廃止になりますが、その間、年とともに順調な成績をあげ、13年には春秋8日間で入
場者が384,736人、馬券売上額は1,614,274円にものぼりました。しかし、この競馬場は、観覧席が建設
できず、「野天競馬」の汚名を付けられたまま廃止になりました。当時、大洲中学校から北に向かって国道14
号線に出る通りを、「競馬通り」と呼んでいたといいます。
市川競馬場があったころの市内図
資料は「市川まちの地名の由来No.18」を参考
大洲自治会50周年記念誌 「明日に向かって 大洲」より